マハサマディとは何か
今日は「マハサマディ」についてお話をさせていただきます。
ヒマラヤ聖者は究極のサマディを成し遂げ、心身を浄め尽くした存在です。
そのように末長く修行をされ浄まった方が亡くなると「マハサマディ」という言葉をインドでは使います。
それは「究極のサマディ」、純粋な存在・源の存在と一体になっていて、肉体を脱いで還ってこないとされてます。
永遠の存在と一体になってサマディ(涅槃)に没入しきっていることを「マハサマディ」と言うんですね。
天国に行って純粋意識になってそこにあり続けるわけですが、普通の人が亡くなったことを「マハサマディ」とは言わないですね。
悟りと純粋意識の世界
日本では「仏になる」と言いますが、「仏」というのは私たちが悟る力があるということで、肉体の具合が悪くて生きられないときは、寿命が尽きて肉体を脱いで亡くなります。
悟りを得た存在というのは意識が覚醒しているので、純粋意識のまま神と一体になってそれであり続けることなんですね。
ヒマラヤの修行というのは「究極のサマディ」を成し遂げて涅槃に入り、心を超えて源の存在と一体になるものです。
空(くう)の状態、ナッシングネスになりきるには、しっかりと意識を覚醒させることなんですね。
また、サンカルパ(純粋な意志の力)の叡智がないとそこから戻ってこれないことがあるので、誰もが深い瞑想でそういう状態を維持できるものではないのです。
アンダーグラウンドサマディ – 死を超える修行
「アンダーグラウンドサマディ(空気を遮断した地下の聖なる空間で行われる長時間の瞑想修業)」は、全部が密閉された中で死を超えていることを証明するものです。
もし、その中で呼吸をしたら二酸化炭素が増えて、そこで亡くなってしまいますが、全てを浄まり尽くして、心を超えて死を超えたステージに到達することを指します。
源の純粋な波動と一体になり、さらにナッシングネスになって「ブラフマン(至高なる神、源の存在)」と一体になるのです。
アートマンからブラフマンへ – 真の自己を知る
最初は「アートマン(人間の源の存在)」で、それは真の自己なんですが、そこに立ち還って、真の自分自身になっていく。
「自分は一体誰であるのか」
私たちはそういった永遠の変わらない存在で、そこから送られてきた存在であります。
その源を知らないことは、私たちは本当のことを知らないということです。
そして、それを知っていくことは、全てのことが明確になって分かるということなのです。
「アートマン(真の自分)」になり、さらに「パラマアートマン(大きな宇宙の魂)」という、大きなアートマンと一体になっていく。
海の水があって、一人ひとりが水をコップに汲んだその水が1人のアートマンで、その水を大海に戻して流すと大海の水と一体になる。
大海の水が源の存在で、それを「ブラフマン」と言います。
そこに還っていくのが、真の悟り「マハサマディ」で、そこからもう戻って来ないということなのです。
瞑想と究極のサマディへの道
みなさんが瞑想をしてちょっとすると、またマインドが働いて、現在意識になって戻ってくるわけです。
それを深く修行をしていくと、「究極のサマディ」のステージに留まるのですが、そこから戻ってこれるように、力をいただくのが秘法でもあるわけです。
そのような修行をして証明していく、それが「究極のサマディ(涅槃)」なのです。
サマディの段階と種類
サマディもいろいろと段階ごとに「身体のサマディ」や「心のサマディ」等の名前があります。
サマディは一体になることですが、まだ心の働きがあって「ヴィタルカサマディ(身体のサマディ)」、「ニルヴィタルカサマディ(身体のレベルを超えたサマディ)」。
「ヴィチャーラ」というのは「心」という意味で、「ヴィチャーラサマディ(心のサマディ)」、「ニルヴィチャーラサマディ(心のレベルを超えたサマディ)」。
「アーナンダサマディ」は喜びのサマディ。
「アスミタサマディ」は「私、私」という最後のエゴです。
それらを純粋にして、それと一体になり、全部が消える「ニル」、ナッシングネスになる。
サマディにはそういう段階があるのです。
瞑想・集中・サマディの違い
サマディのことを「瞑想」と言う方もいますが、聖者によって使い方がいろいろとあり、混乱を極めるところもあります。
段階を踏んでただ座っていることを「瞑想」と言ったり、サンスクリット語では瞑想を「ディヤーナ」と言います。
「サマディ」というのは瞑想より上級で、「ディヤーナ」という一筋の状態が続くことなのです。
「コンセントレイト」は集中ということですが、それをサンスクリット語で「ダラーナ」と言うんですね。
例えば、光を見ているとか、黒点を見ることで、一つのことに集中している。
集中というのはエネルギーを集めることなんです。
勉強に没頭する等のように、ものすごくエネルギーを消耗する行為でもあるわけです。
瞑想というのはそれが広がった状態で、どちらかというと離れる感じなんですね。
それになりきっていくと広がって流れに乗っかっていくような状態です。
その前にいろいろなステップがあって、感覚を統制する「プラティヤハーラ(ヨガの八支則の第5ステップ)」というのがあります。
耳がいろいろと聞こえたり、目もうろうろしたり、そういう感覚をシャットアウトして、聖なるものに意識を向けていくんですね。
その波動と一体になっていく。
そういうことでみなさんには身体・心があり、その源に曇りのない純粋な存在、全てを作り出す存在があるんです。
そして、そこに立ち還っていくのです。
聖者の埋葬とサマディプレイス
死ぬと身体をここに置いて、魂と心の記憶がくっついていくので、生きている間に心を浄めていくのがいいのです。
普通の人はストレスをいっぱい溜めているので、できるだけ良いエネルギーにつながって生きている間に修行をしていただきたいんですね。
インドでは、人が亡くなると火葬して、薪をたくさん組んでそこの上に乗せて、肉体を消滅させて骨を拾って遺灰をガンジス河に流したりするんですね。
だけど、聖者の肉体は焼かないんです。
「マハサマディ」に入った聖者は、身体も心も全部浄めつくしたので天国に行くと言われてます。
聖者は綺麗だから焼く必要がないので、そのまま土葬にするんですね。
マハヨギ・パイロットババジ(ヨグマタの兄弟弟子)のときも土葬で埋葬しました。
それで、みんなもさらに拝みやすくなる。
そんなふうにインドでは「サマディプレイス」を作って、それをみなさんが信仰深くお参りをしてパワーをいただくんですね。
亡くなられてからも、その聖者の波動がみなさんをお救いしていくと信じられています。
〜ヨグマタ相川圭子 公式Youtube(2025.10.11放送分)より

執筆者:ヨグマタ相川圭子
10代の頃からヨガや瞑想、健康法に興味を持ち実践。単⾝ヒマラヤに渡り、悟りへの道である本格的なヨガの修⾏を⾏い、ヨガ・瞑想の究極のステージ「サマディ」に到達する。 過去3回にわたり、国連でスピーチ・瞑想指導を行う。日本でも講演会、各種研修を開催。著書は累計100万部を突破し、作家としても活躍している。